今日の日記
2002年9月26日古文の先生は気持ち悪い。
その顔。
その髪型。
シャツからはちきれそうなお腹。
「ああん♪」と「ねぇぇ?」を連発する話し方。
腰の振りと身振りがやたら大袈裟な説明の仕方。
そして、未だ独身で年がら年中いろんな女の人に振られているらしいことを、
授業の合間にそっともらすところまで、
とにかく何から何まで気持ち悪い。
1学期に初めて先生の授業を受けた時は、
その気持ち悪さにしばらくなれることが出来ず、戸惑ったものだ。
しかも、僕は視力の関係でたいてい前から2列目の真中の席を取ることにしている。
したがって顔を上げると講師と視線が合うことが良くある。
他の講師に関してはできるだけ視線をそらさずに入られる僕だが、その古文の講師とだけはどうしても視線が合わせられない。
気持ち悪いのだ。
まともに見つめることが出来ない。
それくらいの気持ち悪さを彼は持っている。
しかしである。
2学期になって、彼の気持ち悪さにもある程度慣れが生じ、
次に来るであろう気持ち悪さに対して予測が可能になるにつれて、
なんだか、彼のその授業に親しみを感じるようになってしまった。
授業終わった後に嫌な気持ちが少しも残らず、それどころか、なんとなく心地よい気分を味わった後のような爽快感が残ってしまうのである。
あれ?今ひょっとして楽しくなかった?
そんな感じ。
そして今朝、学校に向かうために自転車に乗っていた僕は、
心の中にある種のうきうき感を感じていた。
これから何か楽しいことが起きることを予感する時のあのかすかな高揚感。
・・・。
あれ?ひょっとして僕、楽しみ?
やばい。
これはやばい。
自分のなかであの気持ち悪さを受け入れるばかりか、
積極的に楽しもうとする心理が働こうとしている。
このままじゃいけない。
何とかしないと・・・。
しかし、
すでに慣れきってしまった僕には、もう気持ち悪さを感じることは出来なくなってしまっていた。
いや、気持ち悪さは感じても、
そこに嫌悪感を感じることが出来なくなっていた。
もうどうしようもない。
それは気持ち悪さに対する完全なる敗北だった。
敗れ去った僕は、軽い屈辱感と、否定しがたい爽快感とともに、
今日も、前から2番目の中央の席を取り、
先生の顔を直視することも出来ない気持ち悪さを楽しむのだった。
あぁ、恐るべし気持ち悪さ。
その顔。
その髪型。
シャツからはちきれそうなお腹。
「ああん♪」と「ねぇぇ?」を連発する話し方。
腰の振りと身振りがやたら大袈裟な説明の仕方。
そして、未だ独身で年がら年中いろんな女の人に振られているらしいことを、
授業の合間にそっともらすところまで、
とにかく何から何まで気持ち悪い。
1学期に初めて先生の授業を受けた時は、
その気持ち悪さにしばらくなれることが出来ず、戸惑ったものだ。
しかも、僕は視力の関係でたいてい前から2列目の真中の席を取ることにしている。
したがって顔を上げると講師と視線が合うことが良くある。
他の講師に関してはできるだけ視線をそらさずに入られる僕だが、その古文の講師とだけはどうしても視線が合わせられない。
気持ち悪いのだ。
まともに見つめることが出来ない。
それくらいの気持ち悪さを彼は持っている。
しかしである。
2学期になって、彼の気持ち悪さにもある程度慣れが生じ、
次に来るであろう気持ち悪さに対して予測が可能になるにつれて、
なんだか、彼のその授業に親しみを感じるようになってしまった。
授業終わった後に嫌な気持ちが少しも残らず、それどころか、なんとなく心地よい気分を味わった後のような爽快感が残ってしまうのである。
あれ?今ひょっとして楽しくなかった?
そんな感じ。
そして今朝、学校に向かうために自転車に乗っていた僕は、
心の中にある種のうきうき感を感じていた。
これから何か楽しいことが起きることを予感する時のあのかすかな高揚感。
・・・。
あれ?ひょっとして僕、楽しみ?
やばい。
これはやばい。
自分のなかであの気持ち悪さを受け入れるばかりか、
積極的に楽しもうとする心理が働こうとしている。
このままじゃいけない。
何とかしないと・・・。
しかし、
すでに慣れきってしまった僕には、もう気持ち悪さを感じることは出来なくなってしまっていた。
いや、気持ち悪さは感じても、
そこに嫌悪感を感じることが出来なくなっていた。
もうどうしようもない。
それは気持ち悪さに対する完全なる敗北だった。
敗れ去った僕は、軽い屈辱感と、否定しがたい爽快感とともに、
今日も、前から2番目の中央の席を取り、
先生の顔を直視することも出来ない気持ち悪さを楽しむのだった。
あぁ、恐るべし気持ち悪さ。
今日の日記
2002年9月25日今日の授業は漢文演習と英語長文読解、数学?、私立世界史。
漢文はつまらない。
なにしろその講師、
ギャグが滑りっぱなしだ。
ギャグが、っていうか、全てが滑ってる。
しかも生徒たちの冷たい視線に会っても、少しも気にしていない。
気にしない振りをすることに、慣れっこになっているのだ。
せめて気にして欲しいと思う。
それくらいのプライドは見せて欲しいと思う。
向上を目指さない日々。
そんな大人を見るのは辛い。
世界史の講師は、今週もまた北朝鮮批判から入った。
「あれを国家と考えるべきではない。アジアの一角にあるテロ集団と考えればいいのだ。」
「あんなテロ集団と国交回復する意味なんてない。そもそも国家として付き合うのが間違っている。」
少なくともそれは、世界史を教える講師に言ってもらいたくはなかった。
今の世論は感情的でありすぎる、と僕は思う。
もちろん遺族の悲しみと憤りは当然だし、
厳重なる抗議と再発防止の努力は絶対に必要だし、
北朝鮮の真意を疑うこともわすれてはならないと思う。
けれどだからといって「国交回復必要なし」にはならない。
ソ連解体後の極東の最大の脅威であり、安全保障の大事なポイントとなる北朝鮮との国交回復は、
日本にとってさけては通れない課題であるはず。
このまま北朝鮮が国交を閉ざしている限りは、アメリカが「イラク後」の攻撃目標を北朝鮮に据えるのは当然で、
そうなれば日本の米軍基地も使用されることになるかもしれない。
しかも経済が停滞し亡命希望者の駆け込み事件に歯止めが利かなくなっているような現状では、
人道的な面からも北朝鮮への経済協力は不可欠だ。
それを国交回復交渉にまで反対するのは、あまりに国益を考えない感情的議論にすぎると思うのである。
とはいえ、現段階ではメディアも政治家も多くが、ひたすら北朝鮮バッシングを唱えている。
今の怒りの段階を乗り越えて冷静な対応を取ることが出来るかで、日本社会の熟成度がためされることになるような気がする。
どんな国家にも負の歴史はつきものだ。
日本にもある。
しかし関係する他国がその怒りをいつまでも忘れず、かたくなに国交を拒否しつづければ、
怒りは連鎖し、望む平和を手に入れることは出来ない。
感情だけでは人間社会は成り立っていかないのだ。
日本人はもっと冷静になるべきだ。
漢文はつまらない。
なにしろその講師、
ギャグが滑りっぱなしだ。
ギャグが、っていうか、全てが滑ってる。
しかも生徒たちの冷たい視線に会っても、少しも気にしていない。
気にしない振りをすることに、慣れっこになっているのだ。
せめて気にして欲しいと思う。
それくらいのプライドは見せて欲しいと思う。
向上を目指さない日々。
そんな大人を見るのは辛い。
世界史の講師は、今週もまた北朝鮮批判から入った。
「あれを国家と考えるべきではない。アジアの一角にあるテロ集団と考えればいいのだ。」
「あんなテロ集団と国交回復する意味なんてない。そもそも国家として付き合うのが間違っている。」
少なくともそれは、世界史を教える講師に言ってもらいたくはなかった。
今の世論は感情的でありすぎる、と僕は思う。
もちろん遺族の悲しみと憤りは当然だし、
厳重なる抗議と再発防止の努力は絶対に必要だし、
北朝鮮の真意を疑うこともわすれてはならないと思う。
けれどだからといって「国交回復必要なし」にはならない。
ソ連解体後の極東の最大の脅威であり、安全保障の大事なポイントとなる北朝鮮との国交回復は、
日本にとってさけては通れない課題であるはず。
このまま北朝鮮が国交を閉ざしている限りは、アメリカが「イラク後」の攻撃目標を北朝鮮に据えるのは当然で、
そうなれば日本の米軍基地も使用されることになるかもしれない。
しかも経済が停滞し亡命希望者の駆け込み事件に歯止めが利かなくなっているような現状では、
人道的な面からも北朝鮮への経済協力は不可欠だ。
それを国交回復交渉にまで反対するのは、あまりに国益を考えない感情的議論にすぎると思うのである。
とはいえ、現段階ではメディアも政治家も多くが、ひたすら北朝鮮バッシングを唱えている。
今の怒りの段階を乗り越えて冷静な対応を取ることが出来るかで、日本社会の熟成度がためされることになるような気がする。
どんな国家にも負の歴史はつきものだ。
日本にもある。
しかし関係する他国がその怒りをいつまでも忘れず、かたくなに国交を拒否しつづければ、
怒りは連鎖し、望む平和を手に入れることは出来ない。
感情だけでは人間社会は成り立っていかないのだ。
日本人はもっと冷静になるべきだ。
今日の日記
2002年9月24日今日は英作文と数学?。
英作文の先生が先日過労で倒れたため、声が出にくいらしくやたらと恐縮していた。
この人はいつもいつも忙しい忙しいと言いながら、
膨大な知識量のプリントを毎週生徒の為に作り、
色んな校舎の生徒の膨大な量の英作文を添削しているらしい。
そりゃ、過労で倒れるのもあたりまえだ。
こんな生活をしていて大丈夫なのだろうか。
口は悪いけど、ほんとに生徒のことを考えてくれるめちゃくちゃいいやつなだけに、
疲れ果てたその表情がなんだか痛々しかった。
英作文の先生が先日過労で倒れたため、声が出にくいらしくやたらと恐縮していた。
この人はいつもいつも忙しい忙しいと言いながら、
膨大な知識量のプリントを毎週生徒の為に作り、
色んな校舎の生徒の膨大な量の英作文を添削しているらしい。
そりゃ、過労で倒れるのもあたりまえだ。
こんな生活をしていて大丈夫なのだろうか。
口は悪いけど、ほんとに生徒のことを考えてくれるめちゃくちゃいいやつなだけに、
疲れ果てたその表情がなんだか痛々しかった。
今日の日記
2002年9月23日今日は世間は休日だが、受験生に休日はない。
元気に予備校に行った。
今日の授業は現代文と英文解釈とリスニング。
リスニングではいつも、自分の会話表現の少なさを思い知る。
週の初めにいきなりへこまされるのがちょっと辛かった。
元気に予備校に行った。
今日の授業は現代文と英文解釈とリスニング。
リスニングではいつも、自分の会話表現の少なさを思い知る。
週の初めにいきなりへこまされるのがちょっと辛かった。
今日の日記
2002年9月22日高校の体育祭に行った。
今年応援団に1年生が二人も入ったという。
話には聞いていたが、見るのは初めてだ。
二人ともすごく真面目そう。
へらへらした僕が挨拶しても、気をつけの姿勢で、表情一つ変えずにお辞儀を返してきた。
ちょっと驚いたが、よく考えたらあたりまえだ。
援団の1年生が体育祭の日に笑ったりできるわけがない。
いつ先輩に怒られるか、それが気が気でないのだ。
そんなことも忘れてしまっていた。
もう、今の僕には彼らを厳しくしごいてやることも出来ないだろう。
男子援がかろうじてその命脈をつないでいたことはとても嬉しかったが、
すでにあそこは僕から遠い場所だ。
久しぶりに中学・高校と同じ学校だった後輩Sと会って一緒に帰った。
なんだか、今年僕と同じ学校を受けるらしい。
「先輩とまた同じ学校にいけたらいいですね。」
そういわれた。
・・・ちょっと痛い。
彼とちゃんと話すのは元中生徒会だった頃の文化祭打ち上げ以来だ。
懐かしかった。
今年応援団に1年生が二人も入ったという。
話には聞いていたが、見るのは初めてだ。
二人ともすごく真面目そう。
へらへらした僕が挨拶しても、気をつけの姿勢で、表情一つ変えずにお辞儀を返してきた。
ちょっと驚いたが、よく考えたらあたりまえだ。
援団の1年生が体育祭の日に笑ったりできるわけがない。
いつ先輩に怒られるか、それが気が気でないのだ。
そんなことも忘れてしまっていた。
もう、今の僕には彼らを厳しくしごいてやることも出来ないだろう。
男子援がかろうじてその命脈をつないでいたことはとても嬉しかったが、
すでにあそこは僕から遠い場所だ。
久しぶりに中学・高校と同じ学校だった後輩Sと会って一緒に帰った。
なんだか、今年僕と同じ学校を受けるらしい。
「先輩とまた同じ学校にいけたらいいですね。」
そういわれた。
・・・ちょっと痛い。
彼とちゃんと話すのは元中生徒会だった頃の文化祭打ち上げ以来だ。
懐かしかった。
今日の日記
2002年8月25日去年の今ごろもそうだったけど、
この時期、ついうっかり自分の手綱を緩めて、活字の中にはまり込んでしまいがちだ。
昼間はさすがに勉強しなきゃって思いがあるから、あまり読まないけど、
夕方、いままで勉強したしちょっと一休み♪とか、
夜、布団入って眠くなるまでちょっとだけ♪とか、
そういう時間帯が一番やばい。
読み始めるとついつい時間がたつのを忘れてしまう。
でもどうしてこの時期なんだろう。
夏休みもそろそろ終わり。
なんとなく単調な勉強に変化が欲しくなる頃なんだろうか。
とにかく活字が無性に恋しい。
特に最近は世界史関連の本にはまりぎみ。
世界史に関しては、毎日勉強していろんな知識が入っているので理解も進むし、
点と点だった知識を線で結んでくれたり、放射状に拡大してくれたり…、そんな喜びがある。
特に、記憶の片隅にしまってあった年号や人名が文中に出てきた時なんかは、なんだか理由もなくうれしい。
僕が受ける大学の世界史の問題は論述形式だから、
個々の点としての知識より、それらを結ぶ線の方が大事となってくる。
だから、本を読むのも受験勉強さ。
そんなことを自分に言い聞かせて、受験勉強からの逃避の言い訳に出来てしまうところが、
本の困ったところだって思う。
この時期、ついうっかり自分の手綱を緩めて、活字の中にはまり込んでしまいがちだ。
昼間はさすがに勉強しなきゃって思いがあるから、あまり読まないけど、
夕方、いままで勉強したしちょっと一休み♪とか、
夜、布団入って眠くなるまでちょっとだけ♪とか、
そういう時間帯が一番やばい。
読み始めるとついつい時間がたつのを忘れてしまう。
でもどうしてこの時期なんだろう。
夏休みもそろそろ終わり。
なんとなく単調な勉強に変化が欲しくなる頃なんだろうか。
とにかく活字が無性に恋しい。
特に最近は世界史関連の本にはまりぎみ。
世界史に関しては、毎日勉強していろんな知識が入っているので理解も進むし、
点と点だった知識を線で結んでくれたり、放射状に拡大してくれたり…、そんな喜びがある。
特に、記憶の片隅にしまってあった年号や人名が文中に出てきた時なんかは、なんだか理由もなくうれしい。
僕が受ける大学の世界史の問題は論述形式だから、
個々の点としての知識より、それらを結ぶ線の方が大事となってくる。
だから、本を読むのも受験勉強さ。
そんなことを自分に言い聞かせて、受験勉強からの逃避の言い訳に出来てしまうところが、
本の困ったところだって思う。
やっと
2002年7月29日今日で、やっと夏期講習がいったん終わり。
20日から今日まで毎日2コマの授業がはいる日々だった。
それも夏期講習の志望校対応の講座だから予習がとてもハード。
なんかせっかく夏休みなのに、
この10日間授業についていくのがやっと。
予定していた復習が全然進まなくてつらい日々だった。
授業自体は面白かったけど。
志望校の難しさを改めて思い知った。
英語にしても世界史にしても、今いる段階より
更にもう一段上に上がらないといけないだろう。
まぁ、今の段階はおそらく自分としては
限界までまだまだあるとおもうから悲観はしてないけど。
世界史は楽しい。
社会を理解する道具として絶対に押さえておかなくてはならない基礎知識だ。
世界史を学んでよかった。
メソポタミア文明とか、黄河文明とかその辺から考えると、
人類が文明をもちだしてからすでに5000年以上がたっていることになる。
それでも、まだ人類は長い間探している正解を見つけ出せていないように思う。
たくさんの歴史の積み重ねの末に作り上げ、
そしてそれからまた長い時間人間社会を定義してきた資本主義も、
結局は欧米による世界支配体制の言い換えにすぎない気がする。
自由競争という名の、不平等社会の押し付け。
グローバル化という名の、経済的世界侵略。
これまで欧米中心に展開された世界史には目の届きにくい「辺境」で、
欧米本位の社会形成は悲惨な結果を生んできた。
資本主義だから、自由競争だから、グローバル化だから、
その名のもとに世界経済を欧米に従属させ、
富を集中させるような世界体制は、
人類にとっての正解ではないと思う。
だから、僕達は考えつづけるべきなのだ。
正解と呼ぶにふさわしい社会体制を。
戦争、人権、貧困、腐敗・・・。
それらの問題の根本はすべて、
それらを生み出す社会体制の改善という課題に帰着する。
「慈善」「救済」「愛」などといった支流に流されてはいけない。
そこにあるのは体制の中の勝者が、体制の中の敗者を哀れみ
あくまで自分が勝者足りえる体制を維持する範囲でのみ感じる
安っぽい自己満足でしかない。
構造を変えずに現状を見るだけでは、
それは責任の丸投げにもなりかねない。
そうではなく、僕達は考えなくてはいけない。
考えつづける義務がある。
他人の言ったことに追従するのでなく、
自分の力で、自分の意志で、問題を考えることで
自分の進むべき道も見えてくるはず。
考えることこそが問題解決の本流なのである。
そのためにも世界史は学ぶべきだと思う。
人類が作り上げてきた社会体制の歴史を理解し、これからにつなげていくために。
なんだか世界史をやっていると気持ちがやたらと大袈裟になって困るが、
でも、最近、素直にそう思う。
そして気づいたら今日、19歳になってたりする。
20日から今日まで毎日2コマの授業がはいる日々だった。
それも夏期講習の志望校対応の講座だから予習がとてもハード。
なんかせっかく夏休みなのに、
この10日間授業についていくのがやっと。
予定していた復習が全然進まなくてつらい日々だった。
授業自体は面白かったけど。
志望校の難しさを改めて思い知った。
英語にしても世界史にしても、今いる段階より
更にもう一段上に上がらないといけないだろう。
まぁ、今の段階はおそらく自分としては
限界までまだまだあるとおもうから悲観はしてないけど。
世界史は楽しい。
社会を理解する道具として絶対に押さえておかなくてはならない基礎知識だ。
世界史を学んでよかった。
メソポタミア文明とか、黄河文明とかその辺から考えると、
人類が文明をもちだしてからすでに5000年以上がたっていることになる。
それでも、まだ人類は長い間探している正解を見つけ出せていないように思う。
たくさんの歴史の積み重ねの末に作り上げ、
そしてそれからまた長い時間人間社会を定義してきた資本主義も、
結局は欧米による世界支配体制の言い換えにすぎない気がする。
自由競争という名の、不平等社会の押し付け。
グローバル化という名の、経済的世界侵略。
これまで欧米中心に展開された世界史には目の届きにくい「辺境」で、
欧米本位の社会形成は悲惨な結果を生んできた。
資本主義だから、自由競争だから、グローバル化だから、
その名のもとに世界経済を欧米に従属させ、
富を集中させるような世界体制は、
人類にとっての正解ではないと思う。
だから、僕達は考えつづけるべきなのだ。
正解と呼ぶにふさわしい社会体制を。
戦争、人権、貧困、腐敗・・・。
それらの問題の根本はすべて、
それらを生み出す社会体制の改善という課題に帰着する。
「慈善」「救済」「愛」などといった支流に流されてはいけない。
そこにあるのは体制の中の勝者が、体制の中の敗者を哀れみ
あくまで自分が勝者足りえる体制を維持する範囲でのみ感じる
安っぽい自己満足でしかない。
構造を変えずに現状を見るだけでは、
それは責任の丸投げにもなりかねない。
そうではなく、僕達は考えなくてはいけない。
考えつづける義務がある。
他人の言ったことに追従するのでなく、
自分の力で、自分の意志で、問題を考えることで
自分の進むべき道も見えてくるはず。
考えることこそが問題解決の本流なのである。
そのためにも世界史は学ぶべきだと思う。
人類が作り上げてきた社会体制の歴史を理解し、これからにつなげていくために。
なんだか世界史をやっていると気持ちがやたらと大袈裟になって困るが、
でも、最近、素直にそう思う。
そして気づいたら今日、19歳になってたりする。
つめたい
2002年7月13日「いのは冷たいよね」
最近、友達に冗談交じりでよく言われる。
好きな女の子に告白して振られた友達の話を、
みんなは気の毒そうな顔をして神妙に聞いているのに、
僕だけが「実に面白そう」な顔をして、笑顔で聞いているのがいけないのだそうだ。
「笑っちゃダメだろ」といわれて、真面目な顔を作っても、口元に笑いが残ってるらしい。
別に悪意があるとか、「ふられてざまぁみろ」っておもってるとか、
そういうわけではない。
その点はもちろん友達も分かっているから、冗談交じりで済んでいるわけだけど。
それに、僕に言わせれば、
そのふられた子、
好きな子が先週その時間自習室にいたからって授業サボってそこで勉強してた、とか、
相手を待ち伏せしていたのに、向こうがエレベーターで上がっていったもんだから、急いで階段を駆け上がって、やっと追いついた時には息が切れていたとか、
失恋が確定した相手からのメールを、みんなに見せていたとか・・・。
そんな話を聞いて笑わない方がどうかしていると思う。
面白いから笑う。
ただそれだけのことなんだけど。
それはやっぱり「冷たい」って言うことなんだろうか。
「普通」と言われるためには幾つものものルールがある。
友達からきたメールは返さないといけない。
友達の神妙な相談事には笑ってはいけない。
恋人のことは年がら年中好きでいつづけなくてはいけない。
大事な話は電話でしてはいけない。
みんなが楽しげに話している時1人でいてはいけない。
ふたまたかけてはいけない。
人付き合いをめんどくさがってはいけない。
などなど。
別に強制力はたいして強くない。
守らなければ守らないなりに「守らない人」として認知される、それだけのことだ。
でも、きっちり守っている人もいる。
高校時代の友達の多くがその手のルールを守らない人だったからだろうか。
予備校の友達の多くが私立出身のお坊ちゃん(偏見だろうか?)だからだろうか。
かつては意識もしなかったそのルールからの逸脱を日々指摘されて、
少々違和感を覚えている。
但し、僕としては、
最近更にその手のルールに対する関心が失われている。
はっきりいってどうでも良い。
めんどくさい。
基本的に、個人の悩みはその人でしか解決できないもの。
もちろん人の助けがいる場合はある。
求められれば力を貸すのは当然のことだ。
でも、求められる前から相手の心に擦り寄るポーズをとる必要はないし、
人によってはそっちの方がうっとうしかったりもする。
こうしなきゃいけない、こうするべきだと考える必要はない。
ことの善悪や行動の指針を決定するのは、
その時自分がどう思ったか、以外にはありえない。
決められたルールなんて適用する意味はない。
それはそのまま「自分はどうあるべきか」ということに対する思考停止を意味するだけだ。
環境が変われば、人間関係も変化する。
高校時代に較べて、今の環境は、よいところもあるし、ちょっとやりにくいところもある。
でも、自分のいき方をまわりに合わせる必要はない。
かといって肩肘張って周囲を寄せ付けないのも、疲れが増す。
結局は、自分で考えることをやめなければいいのだ。
そう思ってる。
最近、友達に冗談交じりでよく言われる。
好きな女の子に告白して振られた友達の話を、
みんなは気の毒そうな顔をして神妙に聞いているのに、
僕だけが「実に面白そう」な顔をして、笑顔で聞いているのがいけないのだそうだ。
「笑っちゃダメだろ」といわれて、真面目な顔を作っても、口元に笑いが残ってるらしい。
別に悪意があるとか、「ふられてざまぁみろ」っておもってるとか、
そういうわけではない。
その点はもちろん友達も分かっているから、冗談交じりで済んでいるわけだけど。
それに、僕に言わせれば、
そのふられた子、
好きな子が先週その時間自習室にいたからって授業サボってそこで勉強してた、とか、
相手を待ち伏せしていたのに、向こうがエレベーターで上がっていったもんだから、急いで階段を駆け上がって、やっと追いついた時には息が切れていたとか、
失恋が確定した相手からのメールを、みんなに見せていたとか・・・。
そんな話を聞いて笑わない方がどうかしていると思う。
面白いから笑う。
ただそれだけのことなんだけど。
それはやっぱり「冷たい」って言うことなんだろうか。
「普通」と言われるためには幾つものものルールがある。
友達からきたメールは返さないといけない。
友達の神妙な相談事には笑ってはいけない。
恋人のことは年がら年中好きでいつづけなくてはいけない。
大事な話は電話でしてはいけない。
みんなが楽しげに話している時1人でいてはいけない。
ふたまたかけてはいけない。
人付き合いをめんどくさがってはいけない。
などなど。
別に強制力はたいして強くない。
守らなければ守らないなりに「守らない人」として認知される、それだけのことだ。
でも、きっちり守っている人もいる。
高校時代の友達の多くがその手のルールを守らない人だったからだろうか。
予備校の友達の多くが私立出身のお坊ちゃん(偏見だろうか?)だからだろうか。
かつては意識もしなかったそのルールからの逸脱を日々指摘されて、
少々違和感を覚えている。
但し、僕としては、
最近更にその手のルールに対する関心が失われている。
はっきりいってどうでも良い。
めんどくさい。
基本的に、個人の悩みはその人でしか解決できないもの。
もちろん人の助けがいる場合はある。
求められれば力を貸すのは当然のことだ。
でも、求められる前から相手の心に擦り寄るポーズをとる必要はないし、
人によってはそっちの方がうっとうしかったりもする。
こうしなきゃいけない、こうするべきだと考える必要はない。
ことの善悪や行動の指針を決定するのは、
その時自分がどう思ったか、以外にはありえない。
決められたルールなんて適用する意味はない。
それはそのまま「自分はどうあるべきか」ということに対する思考停止を意味するだけだ。
環境が変われば、人間関係も変化する。
高校時代に較べて、今の環境は、よいところもあるし、ちょっとやりにくいところもある。
でも、自分のいき方をまわりに合わせる必要はない。
かといって肩肘張って周囲を寄せ付けないのも、疲れが増す。
結局は、自分で考えることをやめなければいいのだ。
そう思ってる。
今日の日記
2002年7月5日なんだか、自分にしては他人の話をたくさん聞いてあげた一週間だった。
うちのクラスの友達はみんななんだかおもしろい。
浪人生なんだから勉強に集中しようと思いながらも、
なんだかんだでややこしい人間関係に巻き込まれてる。
塾が始まって3ヶ月しかたってないのに、
すでに事実上2度も失恋を経験しちゃった人。
彼の口癖は「彼女ほしー!!」。
友達と二人で、廊下や教室で出会う女の子に片っ端から10点満点の点数をつけて楽しんでいる人。
しかもそんな大声で言ったら聞こえると思うんだけど・・・。
降りる駅も電車の時間も、自習室の机もことごとく自分と一致してしまう女の子が、
ストーカーなのではないかと、真剣に悩んでいる人。
そういうことは思っても口に出してまで言わない方がいいよ、っておもうけど、
体調崩すほど考え込んでしまう彼を見ていると、
笑うのも悪い気がしてくる。
ちょっと仲の良かった男の子二人に、何の脈絡もなく唐突に
「私に恋愛感情は持ち込まないで!!」と言うメールを送りつけてけんかになり、
クラス中の男の失笑と反感を買ってしまうも、
本人はそのことに少しも気づいていない女の子。
ふと「鬼瓦」というフレーズが頭に浮かぶような、
なかなか個性的な顔立ちをした子で、
今日も彼女は同じクラスの意中の男性に猛烈アタック。
相手の男の引きつった表情にはやっぱり気づいていません。
そして、そんなかなりプライベートな話題が、
僕のようなその手の話にあまり関心を持たない人間の耳にまで届いてしまう、
特殊な情報環境。
楽しいような、ちょっと怖いような。
塾の中ってもっと寒寒としていて、
みんながみんな、勉強だけに集中している環境なのかと思ってた。
っていうか、それが本来あるべき姿なのだろう。
なのに、このクラスのこの状態はなんなんだろう。
みんなそんなことで悩んでるほど余裕なのかな?
僕も普段なら喜んで混ぜてもらうだろうけれど、
勉強忙しくてそんな時間もない。
つくづくつまらない人間になってしまったものだ。
仕方ないから、今はみんなの話を聞かせてもらうだけ。
そんなみんなだけど、難関国立大目指してるだけあって、
やっぱり頭はすごく良い。
人の気持ちを想像することができる。
自分にとって多少異質な存在も受け入れてやることができる。
将来に対する考えがしっかりしているから、その分望みも高い。
高いところに目標を据えているだけあって、
妥協することが少ない。
物事に対して深く考察する習慣が出来ている。
だから、一緒に過ごしていて、勉強になることも多い。
浪人生。
そう聞いて感じられるような暗いイメージほどには、
今の生活は、つまらなくない。
適度な刺激と適度な緊張。
そんな環境。
勉強することの楽しさを痛感している。
うちのクラスの友達はみんななんだかおもしろい。
浪人生なんだから勉強に集中しようと思いながらも、
なんだかんだでややこしい人間関係に巻き込まれてる。
塾が始まって3ヶ月しかたってないのに、
すでに事実上2度も失恋を経験しちゃった人。
彼の口癖は「彼女ほしー!!」。
友達と二人で、廊下や教室で出会う女の子に片っ端から10点満点の点数をつけて楽しんでいる人。
しかもそんな大声で言ったら聞こえると思うんだけど・・・。
降りる駅も電車の時間も、自習室の机もことごとく自分と一致してしまう女の子が、
ストーカーなのではないかと、真剣に悩んでいる人。
そういうことは思っても口に出してまで言わない方がいいよ、っておもうけど、
体調崩すほど考え込んでしまう彼を見ていると、
笑うのも悪い気がしてくる。
ちょっと仲の良かった男の子二人に、何の脈絡もなく唐突に
「私に恋愛感情は持ち込まないで!!」と言うメールを送りつけてけんかになり、
クラス中の男の失笑と反感を買ってしまうも、
本人はそのことに少しも気づいていない女の子。
ふと「鬼瓦」というフレーズが頭に浮かぶような、
なかなか個性的な顔立ちをした子で、
今日も彼女は同じクラスの意中の男性に猛烈アタック。
相手の男の引きつった表情にはやっぱり気づいていません。
そして、そんなかなりプライベートな話題が、
僕のようなその手の話にあまり関心を持たない人間の耳にまで届いてしまう、
特殊な情報環境。
楽しいような、ちょっと怖いような。
塾の中ってもっと寒寒としていて、
みんながみんな、勉強だけに集中している環境なのかと思ってた。
っていうか、それが本来あるべき姿なのだろう。
なのに、このクラスのこの状態はなんなんだろう。
みんなそんなことで悩んでるほど余裕なのかな?
僕も普段なら喜んで混ぜてもらうだろうけれど、
勉強忙しくてそんな時間もない。
つくづくつまらない人間になってしまったものだ。
仕方ないから、今はみんなの話を聞かせてもらうだけ。
そんなみんなだけど、難関国立大目指してるだけあって、
やっぱり頭はすごく良い。
人の気持ちを想像することができる。
自分にとって多少異質な存在も受け入れてやることができる。
将来に対する考えがしっかりしているから、その分望みも高い。
高いところに目標を据えているだけあって、
妥協することが少ない。
物事に対して深く考察する習慣が出来ている。
だから、一緒に過ごしていて、勉強になることも多い。
浪人生。
そう聞いて感じられるような暗いイメージほどには、
今の生活は、つまらなくない。
適度な刺激と適度な緊張。
そんな環境。
勉強することの楽しさを痛感している。
数学
2002年6月29日最近、数学が熱い。
自分は文型なので、受験に必要な数学は?A?Bだけだし、
数学よりは英語により力を注ぐべきなんだろうけど、
それでも数学が楽しくて仕方がない。
去年一年間受験勉強してるので、
今年は数学?A?Bの全体的な基礎は大体理解できている。
だから、塾でもかなり高いレベルの問題をどんどん解くことができ、
それだけ数学の醍醐味に触れることができている気がする。
数学をといていると、
それが難解で論理的な手続を多く踏まなくてはならない問題であるほど、
体が内側から熱くなる。
勉強以外何かに真剣に打ち込むということがあまり許されず、
生活にあまり刺激のない、受験生という立場の僕にとって、
数学は数少ない刺激的な体験になりつつある。
僕は理系ではないし、数式の操作自体が好きなわけではないと思う。
数字というシンプルな概念を使った論理組み立て演習としての数学問題が
好きなのだ。
基本的に僕は頭の中で論理を組み立てることが好きだ。
何かを論理立てて考えを進めていく過程に喜びを感じる。
だからこそ社会科学に進もうとしているわけだし。
それだからこそ、
一つ一つの数式に対して単純で明確な根拠を積み重ねていくことで
正解に達する数学の問題にこんなにも燃えてしまうのだろう。
自分が最近、どんどん数学にはまり込んでいくのを感じる。
書店に行った時は、
目的がなくてもつい数学の問題集を数冊ぱらぱらとめくってしまう。
ただ、数学の問題集でも、
基本的な内容のものや、数学?Cまでのってるので難しそうなのは
よく見かけるのだが、
数学?A?Bだけの問題集で、
僕にとって適切なレベルで、といて手応えがありそうな問題が
たくさん載っているものがあまりないのがちょっと悩みだ。
おそらく、難しい理系の大学なら?Cまで使った問題をたくさん作るだろうし、
文型の大学でレベルの高い数学の問題を出すところはあまりないからだろう、
と勝手に想像してる。
それにたくさん問題集はあるのだが、
それがどんなレベルの問題集なのか、それくらいの手ごたえがあるのかなんて、
受験生の自分には良く分からない。
そんなわけで、
良い問題集を探しているのに、なかなか見つからないんですよ、
という状況だ。
毎日毎日予習復習に追われ、
時間がたつのがとても早い。
気づいたらもう6月も終わり。
自分的にはついこないだまで5月だった気がするんですが。
自分は文型なので、受験に必要な数学は?A?Bだけだし、
数学よりは英語により力を注ぐべきなんだろうけど、
それでも数学が楽しくて仕方がない。
去年一年間受験勉強してるので、
今年は数学?A?Bの全体的な基礎は大体理解できている。
だから、塾でもかなり高いレベルの問題をどんどん解くことができ、
それだけ数学の醍醐味に触れることができている気がする。
数学をといていると、
それが難解で論理的な手続を多く踏まなくてはならない問題であるほど、
体が内側から熱くなる。
勉強以外何かに真剣に打ち込むということがあまり許されず、
生活にあまり刺激のない、受験生という立場の僕にとって、
数学は数少ない刺激的な体験になりつつある。
僕は理系ではないし、数式の操作自体が好きなわけではないと思う。
数字というシンプルな概念を使った論理組み立て演習としての数学問題が
好きなのだ。
基本的に僕は頭の中で論理を組み立てることが好きだ。
何かを論理立てて考えを進めていく過程に喜びを感じる。
だからこそ社会科学に進もうとしているわけだし。
それだからこそ、
一つ一つの数式に対して単純で明確な根拠を積み重ねていくことで
正解に達する数学の問題にこんなにも燃えてしまうのだろう。
自分が最近、どんどん数学にはまり込んでいくのを感じる。
書店に行った時は、
目的がなくてもつい数学の問題集を数冊ぱらぱらとめくってしまう。
ただ、数学の問題集でも、
基本的な内容のものや、数学?Cまでのってるので難しそうなのは
よく見かけるのだが、
数学?A?Bだけの問題集で、
僕にとって適切なレベルで、といて手応えがありそうな問題が
たくさん載っているものがあまりないのがちょっと悩みだ。
おそらく、難しい理系の大学なら?Cまで使った問題をたくさん作るだろうし、
文型の大学でレベルの高い数学の問題を出すところはあまりないからだろう、
と勝手に想像してる。
それにたくさん問題集はあるのだが、
それがどんなレベルの問題集なのか、それくらいの手ごたえがあるのかなんて、
受験生の自分には良く分からない。
そんなわけで、
良い問題集を探しているのに、なかなか見つからないんですよ、
という状況だ。
毎日毎日予習復習に追われ、
時間がたつのがとても早い。
気づいたらもう6月も終わり。
自分的にはついこないだまで5月だった気がするんですが。
今日の日記
2002年6月23日なんか久しぶりに今週分の予習が計画どおりに進んだので、日記更新。
スゴイ久しぶり。
なんか、毎日めちゃくちゃ忙しい。
やっと予習が終わったと思ったら、あっという間に授業が終わって復習しなきゃいけなくて、
それが終わったらすぐ翌日の予習しなくちゃいけなくて、
そうこう言ってるうちにすぐに授業で・・・・・・
つくづく自分は要領が悪いと思う。
そんなにやってても復習がおっつかないし。
授業多すぎ。
こんなに忙しかったら日記書いてる暇なんかねぇよ、って思ってたら、
おんなじ塾のジミヘンはちゃんと更新できてるし。
すごい。
滅多にジミヘンのことすごいと思わないけど(笑)、
これはすごい。
自分にもそれくらいの余裕があるべきだと思う。
スゴイ久しぶり。
なんか、毎日めちゃくちゃ忙しい。
やっと予習が終わったと思ったら、あっという間に授業が終わって復習しなきゃいけなくて、
それが終わったらすぐ翌日の予習しなくちゃいけなくて、
そうこう言ってるうちにすぐに授業で・・・・・・
つくづく自分は要領が悪いと思う。
そんなにやってても復習がおっつかないし。
授業多すぎ。
こんなに忙しかったら日記書いてる暇なんかねぇよ、って思ってたら、
おんなじ塾のジミヘンはちゃんと更新できてるし。
すごい。
滅多にジミヘンのことすごいと思わないけど(笑)、
これはすごい。
自分にもそれくらいの余裕があるべきだと思う。
濃い奴と薄い奴
2002年4月28日やっと、一週間終わりました。
予備校めちゃくちゃ忙しいです。
授業と予習復習で毎日終わっていく感じ。
自由な時間が持てない。
『さくら』(NHK朝の連ドラ)見るくらいしか持てない。
うーん、あまり説得力がない・・・。
まぁ、そんな感じの一週間だった。
予備校の授業も全科目一通り受けた。
講師はそれぞれ個性があって面白い。
マイクあるもんだから、ぼそぼそとまるで独り言を言うみたいにしゃべるんでやたら暗い印象を与える人。
生徒の視線が痛いのか、こちらを全く向かずに黒板に向かってしゃべる人。
自分の体格と年齢とルックスを意識したことがないのか、思いっきり大袈裟で体中(特に腰)を使った話し方が、逆に少々気持ち悪い印象を与えていることに気づかない人。
校舎のスタッフのミスだとかで、授業に遅れて入ってくるなり生徒に愚痴をこぼしだす人。
ベルトが締められなくてサスペンダーでズボンを吊らなきゃいけないほど、立派なおなかを持つ人。
などなど。
みんなとっても楽しい講師たちです。
・・・とか言って。
や、って言うのは冗談で、
まぁ、そういうちょっとした欠点を抱えてはいるものの、
授業自体は情報量が多くてとても楽しい。
予習が大変だけど。
ただ、ジミヘンとは同じ授業を受けることが一度もないのが、ちょっと寂しい。
僕と彼とはよっぽど縁がないのだろう。
1人の男の子となかよくなった。
チュートリアルの時に隣りの席に座った子で、
神奈川県の私立の男子高校出身らしい。
元ラグビー部員。
けど実は古本屋が好き。
そしてなんと神奈川県民なのに家族全員広島ファン(!)。
僕の人生で出会った二人目のカープファンである(ちょっと感動)。
っていうか、川崎からわざわざ立川の塾にきているところが理解できない。
横浜とかの方が意外に時間がかかるんだとか、いろいろ説明されたのだが、
絶対もっと近い場所があると思うのだが・・・。
まぁ、彼なりの事情があるのだろう。
まゆげが極端に薄い。
これについては、指摘したくてしょうがなかったが、
まだ知り合って日が浅いので、そこまで細かい突っ込みは控えることにした。
僕だってそれくらいの分別は持っているのだ。
塾ってあれだけ同世代の人が集まっているにもかかわらず、
やたらと静かで、人とのふれあいがほとんどない。
たいてい同じ高校出身のものどおしでくっつくだけだ。
したがって、そこに漂う空気はやるせないほどに寒い。
そんな感じがレベル分けテストの時から早くも漂っていて、
塾で友達ができるということはないだろうと思っていただけに、
まぁ、ちょっとは嬉しい気もする。
同じクラスに同じ高校の友達が一人もいないので、その辺はけっこう寂しい。
ずっと黙ったままで勉強だけしてても、どんどん性格が暗くなってく気がするし、
せっかく講師という突込みどころ満載の人達がそろっているのだ、
やっぱり話す相手がほしくなる。
僕のクラスはわりと人数も少なくて、そこまで空気も寒くないので、
もっといろんな人と仲良くなれるといいな。
髪を切るのがめんどくさい。
考えてみたら、1番最近に髪を切ったのは、
受験終わった直後くらいだから、2月の末だ。
すでに坊主とはいえないくらいに髪が伸びている。
かなりうっとうしいことは確かだし、
起きた時の寝癖は相当のものがあるのだが、
親にも、坊主にしてまた風邪ばかりひくなんてあんた馬鹿ね、とかいわれたので、
この長さをキープしようか、という気になっている。
しかし、どうやって長さを調整しよう。
これまではバリカンを走らせるだけでよかったが、
坊主でない限りそれはできない。
しかし3年間も散髪に、一銭の金もかけてないので、
髪ごときに金を払うのは、少々もったいない気がする。
一応散髪用のはさみがうちにあるので、自分で切っちゃったりしちゃおうかな・・・、なんて。
半分冗談、半分本気。
そんな感じ。
また来週も受験勉強頑張ります。
予備校めちゃくちゃ忙しいです。
授業と予習復習で毎日終わっていく感じ。
自由な時間が持てない。
『さくら』(NHK朝の連ドラ)見るくらいしか持てない。
うーん、あまり説得力がない・・・。
まぁ、そんな感じの一週間だった。
予備校の授業も全科目一通り受けた。
講師はそれぞれ個性があって面白い。
マイクあるもんだから、ぼそぼそとまるで独り言を言うみたいにしゃべるんでやたら暗い印象を与える人。
生徒の視線が痛いのか、こちらを全く向かずに黒板に向かってしゃべる人。
自分の体格と年齢とルックスを意識したことがないのか、思いっきり大袈裟で体中(特に腰)を使った話し方が、逆に少々気持ち悪い印象を与えていることに気づかない人。
校舎のスタッフのミスだとかで、授業に遅れて入ってくるなり生徒に愚痴をこぼしだす人。
ベルトが締められなくてサスペンダーでズボンを吊らなきゃいけないほど、立派なおなかを持つ人。
などなど。
みんなとっても楽しい講師たちです。
・・・とか言って。
や、って言うのは冗談で、
まぁ、そういうちょっとした欠点を抱えてはいるものの、
授業自体は情報量が多くてとても楽しい。
予習が大変だけど。
ただ、ジミヘンとは同じ授業を受けることが一度もないのが、ちょっと寂しい。
僕と彼とはよっぽど縁がないのだろう。
1人の男の子となかよくなった。
チュートリアルの時に隣りの席に座った子で、
神奈川県の私立の男子高校出身らしい。
元ラグビー部員。
けど実は古本屋が好き。
そしてなんと神奈川県民なのに家族全員広島ファン(!)。
僕の人生で出会った二人目のカープファンである(ちょっと感動)。
っていうか、川崎からわざわざ立川の塾にきているところが理解できない。
横浜とかの方が意外に時間がかかるんだとか、いろいろ説明されたのだが、
絶対もっと近い場所があると思うのだが・・・。
まぁ、彼なりの事情があるのだろう。
まゆげが極端に薄い。
これについては、指摘したくてしょうがなかったが、
まだ知り合って日が浅いので、そこまで細かい突っ込みは控えることにした。
僕だってそれくらいの分別は持っているのだ。
塾ってあれだけ同世代の人が集まっているにもかかわらず、
やたらと静かで、人とのふれあいがほとんどない。
たいてい同じ高校出身のものどおしでくっつくだけだ。
したがって、そこに漂う空気はやるせないほどに寒い。
そんな感じがレベル分けテストの時から早くも漂っていて、
塾で友達ができるということはないだろうと思っていただけに、
まぁ、ちょっとは嬉しい気もする。
同じクラスに同じ高校の友達が一人もいないので、その辺はけっこう寂しい。
ずっと黙ったままで勉強だけしてても、どんどん性格が暗くなってく気がするし、
せっかく講師という突込みどころ満載の人達がそろっているのだ、
やっぱり話す相手がほしくなる。
僕のクラスはわりと人数も少なくて、そこまで空気も寒くないので、
もっといろんな人と仲良くなれるといいな。
髪を切るのがめんどくさい。
考えてみたら、1番最近に髪を切ったのは、
受験終わった直後くらいだから、2月の末だ。
すでに坊主とはいえないくらいに髪が伸びている。
かなりうっとうしいことは確かだし、
起きた時の寝癖は相当のものがあるのだが、
親にも、坊主にしてまた風邪ばかりひくなんてあんた馬鹿ね、とかいわれたので、
この長さをキープしようか、という気になっている。
しかし、どうやって長さを調整しよう。
これまではバリカンを走らせるだけでよかったが、
坊主でない限りそれはできない。
しかし3年間も散髪に、一銭の金もかけてないので、
髪ごときに金を払うのは、少々もったいない気がする。
一応散髪用のはさみがうちにあるので、自分で切っちゃったりしちゃおうかな・・・、なんて。
半分冗談、半分本気。
そんな感じ。
また来週も受験勉強頑張ります。
予備校
2002年4月19日今日、初めての授業だった。
自分にとって塾のレギュラーの授業を受けること自体、生まれて初めて。
朝からちょっとドキドキワクワクしてしまった。
予備校の講師っていうと、
やたらバイタリティにあふれてて、
板書がきれいで、
生徒を納得させる話術が巧みで、
みたいな感じをイメージしていたが、
実際受けてみると、みんながみんなそういうわけでもない。
いろんなタイプがいる。
もちろん、やたらいきのいいタイプの講師もいたけど、
そうかというと、知的に冷静にとうとうと語る先生もいたり、
高校の先生と感じも教え方も対して変わらないような、さえないおじさんもいた。
ぼくとしては、そっちの方が安心できる。
みんながみんな、
春期講習のときに教わった講師のような
『おれは有名講師なんだかんね。』
『今まで何人もの生徒を東大早慶に受からせてきたんだかんね。』
『夏期講習のおれの講座なんか、受けつけ開始20分でしめきりなんだかんね。』
みたいな勢いでやたら自分の能力を訴えるようなタイプの講師ばかりだったら
ちょっと疲れそうな気がしてたし。
とりあえず、吸収すべき知識が明確に示されているのは
とてもありがたい。
これから楽しく勉強していけそうだ。
そういえば、ジミヘンにあった。
塾で知った人に会うのは、はじめてかも。
ちょっとうれしかった。
自分にとって塾のレギュラーの授業を受けること自体、生まれて初めて。
朝からちょっとドキドキワクワクしてしまった。
予備校の講師っていうと、
やたらバイタリティにあふれてて、
板書がきれいで、
生徒を納得させる話術が巧みで、
みたいな感じをイメージしていたが、
実際受けてみると、みんながみんなそういうわけでもない。
いろんなタイプがいる。
もちろん、やたらいきのいいタイプの講師もいたけど、
そうかというと、知的に冷静にとうとうと語る先生もいたり、
高校の先生と感じも教え方も対して変わらないような、さえないおじさんもいた。
ぼくとしては、そっちの方が安心できる。
みんながみんな、
春期講習のときに教わった講師のような
『おれは有名講師なんだかんね。』
『今まで何人もの生徒を東大早慶に受からせてきたんだかんね。』
『夏期講習のおれの講座なんか、受けつけ開始20分でしめきりなんだかんね。』
みたいな勢いでやたら自分の能力を訴えるようなタイプの講師ばかりだったら
ちょっと疲れそうな気がしてたし。
とりあえず、吸収すべき知識が明確に示されているのは
とてもありがたい。
これから楽しく勉強していけそうだ。
そういえば、ジミヘンにあった。
塾で知った人に会うのは、はじめてかも。
ちょっとうれしかった。
自殺
2002年4月10日今日の党首討論。
自由党の小沢さんが
パレスチナの自爆テロに触れて
『若い女性が自分の命を犠牲にしてまで、イスラエルに対する攻撃を行なってどうのこうの』
とかいうような発言をしたらしい。
どういう流れの中の発言かは知らないが、
これだけ読むと少なくともこの自爆を肯定的に捉えてるなということは伝わってくる。
ブッシュさんの『卑怯者』呼ばわりとはずいぶん違う。
別にどっちがいいとか悪いとか、
そういうことは個人の立場によって違うだろうし、
どうでもいいと思うんだけど、
両者がそう考えた心理的土壌というか国民性みたいなものを考えると、
ちょっと面白い。
今ではどうか知らないけど、
キリスト教社会では基本的には自殺するということは
生きるために生を与えてくれた神様に対する反逆と捉えられるので、
自殺すること、それ自体が罪である(あった?)らしい。
対して、日本では
ほんの何十年か前まで、
へたすると自殺することが美徳だと捉えられていた国。
文化として、『潔さ』を美の基準の一つに数えているので、
全てに対して未練を断ち切る究極の方法である自殺から
美しさを感じ取る国民性が出来上がってしまったのだろう。
とはいっても、異なる文化と文化の差が昔ほど大きくはなくなっている現代においては、
そのような自殺に対する捉え方の違いも
そこまで顕著ではなくなっている気がする。
日本においても、
自殺した人がすばらしいと誉められることはもうない。
自殺(=切腹)があたりまえのように国民に受け入れられていた時代を経ていることを考えると、
その点では、かなりのレベルで西洋化が進んだようだ。
とはいえ、例えば、中学生がいじめを苦にして自殺をしたり、
サラリーマンが犯したことの責任を取って自殺をしたりした時に、
たとえ自殺者にどんな非があったとしても、
死者の自殺を批判することがタブーであるという風潮は、未だに根深く残っている。
つまり「自殺=美」ではなくなっても、
自殺者は、無条件にいたわる、かわいそうに思う、同情するというのが、
日本の国民性のようだ。
だから、ブッシュさんのように
一連のパレスチナ人の自爆テロに対して
『自殺者=卑怯者』と公に批判をする日本人はあまりいない。
たとえ、その自殺がテロ行為だとしても、
多くの人の命が失われたとしても、
和平への道を遠ざけ、更なる暴力を誘発したとしても、
今日の小沢さんのように
自殺者にたいしては同情の目を向けるのが
日本人なのではないだろうか。
そう思った。
自爆テロは是か非か。
パレスチナとイスラエルはどっちが悪いか。
ブッシュさんと小沢さん、正しいのはどちらか。
そんなこと、国民性を材料に議論できるわけもないし、
それ以前に解答が出るはずもない。
そんなことが言いたいわけではない。
ただ、文化の違いを感じただけ。
自由党の小沢さんが
パレスチナの自爆テロに触れて
『若い女性が自分の命を犠牲にしてまで、イスラエルに対する攻撃を行なってどうのこうの』
とかいうような発言をしたらしい。
どういう流れの中の発言かは知らないが、
これだけ読むと少なくともこの自爆を肯定的に捉えてるなということは伝わってくる。
ブッシュさんの『卑怯者』呼ばわりとはずいぶん違う。
別にどっちがいいとか悪いとか、
そういうことは個人の立場によって違うだろうし、
どうでもいいと思うんだけど、
両者がそう考えた心理的土壌というか国民性みたいなものを考えると、
ちょっと面白い。
今ではどうか知らないけど、
キリスト教社会では基本的には自殺するということは
生きるために生を与えてくれた神様に対する反逆と捉えられるので、
自殺すること、それ自体が罪である(あった?)らしい。
対して、日本では
ほんの何十年か前まで、
へたすると自殺することが美徳だと捉えられていた国。
文化として、『潔さ』を美の基準の一つに数えているので、
全てに対して未練を断ち切る究極の方法である自殺から
美しさを感じ取る国民性が出来上がってしまったのだろう。
とはいっても、異なる文化と文化の差が昔ほど大きくはなくなっている現代においては、
そのような自殺に対する捉え方の違いも
そこまで顕著ではなくなっている気がする。
日本においても、
自殺した人がすばらしいと誉められることはもうない。
自殺(=切腹)があたりまえのように国民に受け入れられていた時代を経ていることを考えると、
その点では、かなりのレベルで西洋化が進んだようだ。
とはいえ、例えば、中学生がいじめを苦にして自殺をしたり、
サラリーマンが犯したことの責任を取って自殺をしたりした時に、
たとえ自殺者にどんな非があったとしても、
死者の自殺を批判することがタブーであるという風潮は、未だに根深く残っている。
つまり「自殺=美」ではなくなっても、
自殺者は、無条件にいたわる、かわいそうに思う、同情するというのが、
日本の国民性のようだ。
だから、ブッシュさんのように
一連のパレスチナ人の自爆テロに対して
『自殺者=卑怯者』と公に批判をする日本人はあまりいない。
たとえ、その自殺がテロ行為だとしても、
多くの人の命が失われたとしても、
和平への道を遠ざけ、更なる暴力を誘発したとしても、
今日の小沢さんのように
自殺者にたいしては同情の目を向けるのが
日本人なのではないだろうか。
そう思った。
自爆テロは是か非か。
パレスチナとイスラエルはどっちが悪いか。
ブッシュさんと小沢さん、正しいのはどちらか。
そんなこと、国民性を材料に議論できるわけもないし、
それ以前に解答が出るはずもない。
そんなことが言いたいわけではない。
ただ、文化の違いを感じただけ。
じーちゃんとばーちゃん
2002年4月8日久々の更新。
もうなんか書くのよそうかとも思ったりもしたけど、
気まぐれでまた書いてたりする。
土曜、日曜と両親の実家にいってきました。
土曜は父親の実家。
正月に、70代にしては驚異的な元気のよさを誇っていたじーちゃんが
ぎっくり腰と風邪によって寝込んだ時は
これをきっかけに寝たきりか!?
などという心配が家族を襲い、
のんきな父と母も、老人が夫婦二人きりで暮らすことの恐ろしさを
さすがに痛感したが、
その後持ち直し、今ではすっかり元気に生活できているようだ。
ばーちゃんも今までより更に腰が曲がり体が一回り小さくなってしまっていたが、
僕達の顔を見たらすごい勢いでうれしそうに話しつづけるところを見ると、
なんだか安心してしまった。
じーちゃん家は隣りの市にあり、車なら20分でいけるにもかかわらず、
ぼくは受験やらなにやらで、しばらく行けなくて、
じーちゃんばーちゃんにあうのは久しぶり。
それだけに二人ともとてもうれしそうに迎えてくれた。
特にばーちゃんはひたすら感激してくれて
『あらあら、3人とも大きくなって・・・』
『あんなに小さかった子達がこんなに大きくなる姿が見られるまで生きられるなんてねぇ。』
というようなことを、何度も何度も繰り返していた。
ちょうど、友達にもらった卒業式の写真が、
もらった時に手帳に挟み込んだままだったのを見せてやると、
食い入るように2人でじっと見つめていて、ちょっと困った。
そんなに喜んでくれるならもっと沢山持っていってやればよかったかも。
じーちゃんが『いのすけの彼女はいるのか?』とか聞いてくるから、
『あぁ、一応こいつだけど』と指差して教えてやると、
『ほぉー・・・、あぁ、ちょっとかわいいじゃないか・・・』と、つぶやいていた。
「ちょっと」ね・・・。
まぁいいや。
兄と妹は疲れてたり、高校の課題に追われてたりして、
食事が終わるとすぐに別の部屋に行ってしまったので、
僕と母親がずっと二人の相手をしてやった。
ばーちゃんとじーちゃんの話はすぐに戦争中に飛んだり、
前にも聴いたことあるような田舎の話をはじめたりするので、
ちょっと苦手な印象が会ったけど、
久しぶりに話してみると、
ばーちゃんは昔から山好きで、腰痛める前はよく登ってたみたいだし、
じーちゃんは僕よりずっと古くからの相撲好きだし、
二人とも最近家にいるせいか、TVもよく見ていて話題も豊富になっていて、
実は僕と話がとても合う。
おしゃべりなばーちゃんと、理論派のじーちゃん(元出版社勤務)の会話は
軽く毒舌が効いていて、とても楽しかった。
帰り際、『もしかしたらかおり(妹)が成人するまで生きてられるかもしれないねぇ』と
ばあちゃんが感慨深げに語っていた。
ひたすら元気に意地を張り通してきたばーちゃんも、
そろそろ『死』ということを明確に意識するようになってきたのか、
以前には絶対に言わなかったようなそんなせりふまで飛び出すようになったようだ。
なんだか、その場の雰囲気が
やたらと物語的で通俗的で、そして感動的になってしまったのが、
ちょっとおかしく、不思議な気がした。
もうなんか書くのよそうかとも思ったりもしたけど、
気まぐれでまた書いてたりする。
土曜、日曜と両親の実家にいってきました。
土曜は父親の実家。
正月に、70代にしては驚異的な元気のよさを誇っていたじーちゃんが
ぎっくり腰と風邪によって寝込んだ時は
これをきっかけに寝たきりか!?
などという心配が家族を襲い、
のんきな父と母も、老人が夫婦二人きりで暮らすことの恐ろしさを
さすがに痛感したが、
その後持ち直し、今ではすっかり元気に生活できているようだ。
ばーちゃんも今までより更に腰が曲がり体が一回り小さくなってしまっていたが、
僕達の顔を見たらすごい勢いでうれしそうに話しつづけるところを見ると、
なんだか安心してしまった。
じーちゃん家は隣りの市にあり、車なら20分でいけるにもかかわらず、
ぼくは受験やらなにやらで、しばらく行けなくて、
じーちゃんばーちゃんにあうのは久しぶり。
それだけに二人ともとてもうれしそうに迎えてくれた。
特にばーちゃんはひたすら感激してくれて
『あらあら、3人とも大きくなって・・・』
『あんなに小さかった子達がこんなに大きくなる姿が見られるまで生きられるなんてねぇ。』
というようなことを、何度も何度も繰り返していた。
ちょうど、友達にもらった卒業式の写真が、
もらった時に手帳に挟み込んだままだったのを見せてやると、
食い入るように2人でじっと見つめていて、ちょっと困った。
そんなに喜んでくれるならもっと沢山持っていってやればよかったかも。
じーちゃんが『いのすけの彼女はいるのか?』とか聞いてくるから、
『あぁ、一応こいつだけど』と指差して教えてやると、
『ほぉー・・・、あぁ、ちょっとかわいいじゃないか・・・』と、つぶやいていた。
「ちょっと」ね・・・。
まぁいいや。
兄と妹は疲れてたり、高校の課題に追われてたりして、
食事が終わるとすぐに別の部屋に行ってしまったので、
僕と母親がずっと二人の相手をしてやった。
ばーちゃんとじーちゃんの話はすぐに戦争中に飛んだり、
前にも聴いたことあるような田舎の話をはじめたりするので、
ちょっと苦手な印象が会ったけど、
久しぶりに話してみると、
ばーちゃんは昔から山好きで、腰痛める前はよく登ってたみたいだし、
じーちゃんは僕よりずっと古くからの相撲好きだし、
二人とも最近家にいるせいか、TVもよく見ていて話題も豊富になっていて、
実は僕と話がとても合う。
おしゃべりなばーちゃんと、理論派のじーちゃん(元出版社勤務)の会話は
軽く毒舌が効いていて、とても楽しかった。
帰り際、『もしかしたらかおり(妹)が成人するまで生きてられるかもしれないねぇ』と
ばあちゃんが感慨深げに語っていた。
ひたすら元気に意地を張り通してきたばーちゃんも、
そろそろ『死』ということを明確に意識するようになってきたのか、
以前には絶対に言わなかったようなそんなせりふまで飛び出すようになったようだ。
なんだか、その場の雰囲気が
やたらと物語的で通俗的で、そして感動的になってしまったのが、
ちょっとおかしく、不思議な気がした。
大人
2002年3月7日出来上がった答辞を先生に見てもらうために学校に行った。
卒業生の代表としてこの学校最後の日に読む答辞。
さすがに今回ばかりは、適当に書くわけにはいかない。
自分の書いた文章が果たして他人に理解してもらえるか、
卒業式という場に適しているのか、
結構不安だったが、
職員室にいた国語の先生に見てもらい、
とりあえずは「いいと思うよ」と言われて、
少し自信が持てた。
なにより、その先生が、
軽く読み飛ばして「あ、いいんじゃない」とあっさり流されるのでなく、
真剣に読み込んでくれたのがうれしかった。
僕が気になっていた個所も、しっかり指摘した上で、
「文章全体のバランスを考えれば、このままでいい」と、励ましてくれた。
コピーまでとって「これは記念にとっておくわ」とまで言ってくれた。
帰り際、先生に一枚の紙をもらった。
自分の担任のクラスの生徒に送るために書いた言葉だという。
僕の担任はその先生ではないが、
クラスについて書いた文章の他にも、
先生の国語の授業に対する思いをつづった部分もあり、
それを僕に、お礼代わりにくれると言う。
人から言葉をもらったお礼に、
自分の言葉を送る。
自然にそんな発想をする先生がとても素敵だと思った。
「私はいのすけ君みたいに社会性がないから・・・。」と言って、
ちょっと恥ずかしそうに、でも、ちょっとうれしそうに、
笑いながら渡してくれた。
ちょっと部分的に抜粋。
『優れた文章を読み、人間について、自然について、社会について学ぶとともに、その内容に対する自分の思いや考えを確認することで、新たな自分を発見したり鍛えたりしていく。その作業が私には面白いし、皆にも興味を持って取り組んでほしいと思ってきました。また、読んだり書いたりと言う作業に傾きがちな授業の中で、聴いたり話したりという、人と人とをつなぐ言葉の本来の力を活性化させたいとも思ってきました。
そんな想いだけは御大層で、実際はうまくいかないことのほうが多い毎日の授業の中でも、こちらをしっかり見つめているまなざしに出会う日が確かにあるのです。そんな時は、役に立っていると言う喜びと、受けとめてくれていると言う感謝の気持ちで一杯になりました。
老人は何かをしてもらった時よりも、役に立てたと思う時に喜びを感じるのだ聞いたことがありませんか。私は老いてもいないし、老成もしていませんが、これは老人に限ったことではなく、人間の真実です。何かを誰かにしてもらうことはいつだってうれしい。でも、まっすぐに受け止めてもらえることはもっとうれしいことなのです。』
その先生の人柄がそのまま伝わってくる文章で、
帰りの電車の中で読みながら、なんだかうれしくなってきた。
いろんなことを感じたけど、
最後に思ったのは、
自分の高校はこんな先生がいる学校だったんだ、ということ。
そんなこと前から思ってたはずなのに、
なんだか、大きな発見のように感じた。
自分に、自分の職業に、自分の行き方に、
自信と誇りをもって、誠実に生きている大人は
ただそれだけでえらいと思う。
そんな大人に高校と言う場で出会えたという事に、
いまさらながら感謝した。
今日、学校に行ってよかった。
卒業式の前に、「高校を卒業する」とはどういうことか、
きちんと素直に考えることができたから。
明日、卒業式。
せっかく時間をかけて書いた答辞。
とりあえず、頑張って読もう。
卒業生の代表としてこの学校最後の日に読む答辞。
さすがに今回ばかりは、適当に書くわけにはいかない。
自分の書いた文章が果たして他人に理解してもらえるか、
卒業式という場に適しているのか、
結構不安だったが、
職員室にいた国語の先生に見てもらい、
とりあえずは「いいと思うよ」と言われて、
少し自信が持てた。
なにより、その先生が、
軽く読み飛ばして「あ、いいんじゃない」とあっさり流されるのでなく、
真剣に読み込んでくれたのがうれしかった。
僕が気になっていた個所も、しっかり指摘した上で、
「文章全体のバランスを考えれば、このままでいい」と、励ましてくれた。
コピーまでとって「これは記念にとっておくわ」とまで言ってくれた。
帰り際、先生に一枚の紙をもらった。
自分の担任のクラスの生徒に送るために書いた言葉だという。
僕の担任はその先生ではないが、
クラスについて書いた文章の他にも、
先生の国語の授業に対する思いをつづった部分もあり、
それを僕に、お礼代わりにくれると言う。
人から言葉をもらったお礼に、
自分の言葉を送る。
自然にそんな発想をする先生がとても素敵だと思った。
「私はいのすけ君みたいに社会性がないから・・・。」と言って、
ちょっと恥ずかしそうに、でも、ちょっとうれしそうに、
笑いながら渡してくれた。
ちょっと部分的に抜粋。
『優れた文章を読み、人間について、自然について、社会について学ぶとともに、その内容に対する自分の思いや考えを確認することで、新たな自分を発見したり鍛えたりしていく。その作業が私には面白いし、皆にも興味を持って取り組んでほしいと思ってきました。また、読んだり書いたりと言う作業に傾きがちな授業の中で、聴いたり話したりという、人と人とをつなぐ言葉の本来の力を活性化させたいとも思ってきました。
そんな想いだけは御大層で、実際はうまくいかないことのほうが多い毎日の授業の中でも、こちらをしっかり見つめているまなざしに出会う日が確かにあるのです。そんな時は、役に立っていると言う喜びと、受けとめてくれていると言う感謝の気持ちで一杯になりました。
老人は何かをしてもらった時よりも、役に立てたと思う時に喜びを感じるのだ聞いたことがありませんか。私は老いてもいないし、老成もしていませんが、これは老人に限ったことではなく、人間の真実です。何かを誰かにしてもらうことはいつだってうれしい。でも、まっすぐに受け止めてもらえることはもっとうれしいことなのです。』
その先生の人柄がそのまま伝わってくる文章で、
帰りの電車の中で読みながら、なんだかうれしくなってきた。
いろんなことを感じたけど、
最後に思ったのは、
自分の高校はこんな先生がいる学校だったんだ、ということ。
そんなこと前から思ってたはずなのに、
なんだか、大きな発見のように感じた。
自分に、自分の職業に、自分の行き方に、
自信と誇りをもって、誠実に生きている大人は
ただそれだけでえらいと思う。
そんな大人に高校と言う場で出会えたという事に、
いまさらながら感謝した。
今日、学校に行ってよかった。
卒業式の前に、「高校を卒業する」とはどういうことか、
きちんと素直に考えることができたから。
明日、卒業式。
せっかく時間をかけて書いた答辞。
とりあえず、頑張って読もう。
答辞
2002年3月5日8日に行なわれる卒業式。
卒業生代表として答辞を述べなくてはならないらしい。
・・・。
だるっ。
もともと感動の薄い人間だし、
卒業に当たっても、特に何も感じてないし、
昔のように「立派な文章を書いて誉められよう」とかって情熱も湧いてこないし、
3年間の思い出を語りだしてもうざいだけだろうし、
とかって結局書いてると、
「社会情勢が・・・」とか
「国家の・・・」とかって文章になってくる。
そんな自分がとても嫌だ。
気の乗らない作業だから時間がめちゃくちゃかかるし。
文章やたら長くなるし。
しょうがないから、いらないとこ削ったりして、出来上がるんだろうけど、
出来上がったときには、
自分の書いた文章なんて2度と読みたくなくなってる。
だから、本番までできるだけ読まないようにして、
「読んじゃえば終わりよ」っとばかりに読み上げて終わり。
たぶん、こんな感じだろう。
あぁ。
だるい。
卒業生代表として答辞を述べなくてはならないらしい。
・・・。
だるっ。
もともと感動の薄い人間だし、
卒業に当たっても、特に何も感じてないし、
昔のように「立派な文章を書いて誉められよう」とかって情熱も湧いてこないし、
3年間の思い出を語りだしてもうざいだけだろうし、
とかって結局書いてると、
「社会情勢が・・・」とか
「国家の・・・」とかって文章になってくる。
そんな自分がとても嫌だ。
気の乗らない作業だから時間がめちゃくちゃかかるし。
文章やたら長くなるし。
しょうがないから、いらないとこ削ったりして、出来上がるんだろうけど、
出来上がったときには、
自分の書いた文章なんて2度と読みたくなくなってる。
だから、本番までできるだけ読まないようにして、
「読んじゃえば終わりよ」っとばかりに読み上げて終わり。
たぶん、こんな感じだろう。
あぁ。
だるい。
ふぐ
2002年3月3日シンガポールへ単身赴任する叔父(母の妹の旦那さん)の送別会と、
祖父の喜寿のお祝いと、
祖父母夫婦の金婚式と、
妹の高校合格祝いとを兼ねて、
親戚で食事をした。
それもふぐ料理屋さんで。
そりゃ、妹は受験も全て終わり、
もう卒業式を待つばかり、だからいいけど、
ぼくは試験は終わったけど、結果はまだ出ていない、
しかも後期は足切り、という
これ以上ないほど微妙な状況。
そんな時に親戚で会うのは、まぁ、それなりに嫌だったんだけど、しょうがない。
「大学はどうなんだ。」とか聞かれても、
「さぁ。」「後期は落ちたけどね」と答えるしかなくて、
周りの、これまた微妙な反応が、ちょっとつらかった。
食事に関しては、
ぼくは、昼食を抜かしたりして、
それなりに気合を入れていったんだけど、
っていっても、朝食食べたの11:00だったりもするんだけど、
ふぐは、
金額のわりには、
それほど、
感動して涙を流すほどには、
おいしくないんじゃないかなってちょっと思った。
不思議な食感だった。
でも、そんなに普段食べられるものじゃないんで、
まぁ、うれしかったけど。
祖父の喜寿のお祝いと、
祖父母夫婦の金婚式と、
妹の高校合格祝いとを兼ねて、
親戚で食事をした。
それもふぐ料理屋さんで。
そりゃ、妹は受験も全て終わり、
もう卒業式を待つばかり、だからいいけど、
ぼくは試験は終わったけど、結果はまだ出ていない、
しかも後期は足切り、という
これ以上ないほど微妙な状況。
そんな時に親戚で会うのは、まぁ、それなりに嫌だったんだけど、しょうがない。
「大学はどうなんだ。」とか聞かれても、
「さぁ。」「後期は落ちたけどね」と答えるしかなくて、
周りの、これまた微妙な反応が、ちょっとつらかった。
食事に関しては、
ぼくは、昼食を抜かしたりして、
それなりに気合を入れていったんだけど、
っていっても、朝食食べたの11:00だったりもするんだけど、
ふぐは、
金額のわりには、
それほど、
感動して涙を流すほどには、
おいしくないんじゃないかなってちょっと思った。
不思議な食感だった。
でも、そんなに普段食べられるものじゃないんで、
まぁ、うれしかったけど。
受験終了
2002年2月27日志望校から届いた後期試験の「1次選抜結果」が入った封筒。
前期のときに比べて異常に厚みがあったのは、
検定料一部返還のための請求書や
請求書送付用封筒、
振込用紙、など
その他モロモロの書類がたくさん入っているからでした。
えっと、そんなわけで、
後期試験は足切り。
後期の試験場へは、たどり着くこともかなわず、
いのすけの今年度の入学試験は全て終了。
って、国立一本なので、
前期試験1回きりだったけど。
もう、しばらく勉強する必要なしです。
後は、前期の結果を待つのみ。
センター試験の結果の無惨さに凹み、
「2次試験が終わるまではパソコンにはけして触れまい」、
と決意して以来、
1ヶ月以上。
随分久しぶりの日記です。
前期2次試験は、
まぁ、普通でした。
取り敢えず精神的には
無駄に緊張とか、
錯乱とか、
暴走とか、
乱舞とか、
そういうことなしに、
何とか実力は出せたんじゃないかなって感じです。
英語はちょっとやばかったけど、
ぼくの英語力なんてこんなもん。
最後の方は数学と世界史ばかりにかなりの時間をかけてしまったし。
とりあえず、これなら落ちてても納得いくだろうし、
諦めもついてまた勉強しなおせるかな、
と思います。
受かっててほしいけど。
前期のときに比べて異常に厚みがあったのは、
検定料一部返還のための請求書や
請求書送付用封筒、
振込用紙、など
その他モロモロの書類がたくさん入っているからでした。
えっと、そんなわけで、
後期試験は足切り。
後期の試験場へは、たどり着くこともかなわず、
いのすけの今年度の入学試験は全て終了。
って、国立一本なので、
前期試験1回きりだったけど。
もう、しばらく勉強する必要なしです。
後は、前期の結果を待つのみ。
センター試験の結果の無惨さに凹み、
「2次試験が終わるまではパソコンにはけして触れまい」、
と決意して以来、
1ヶ月以上。
随分久しぶりの日記です。
前期2次試験は、
まぁ、普通でした。
取り敢えず精神的には
無駄に緊張とか、
錯乱とか、
暴走とか、
乱舞とか、
そういうことなしに、
何とか実力は出せたんじゃないかなって感じです。
英語はちょっとやばかったけど、
ぼくの英語力なんてこんなもん。
最後の方は数学と世界史ばかりにかなりの時間をかけてしまったし。
とりあえず、これなら落ちてても納得いくだろうし、
諦めもついてまた勉強しなおせるかな、
と思います。
受かっててほしいけど。
うちの家族
2002年1月13日今日は初場所初日。
でもでも、さすがに、センター1週間前切ってるこの期に及んで、
大相撲観戦しようとか、思ってはいません。
そりゃ、貴乃花は休場、武蔵丸は今ひとつ調子が出ていない、と言われる今場所、
大関に昇進した栃東はどこまで行くのか?
影が薄くなりがちだけど、調子が出てきたときの豪快さは誰にも負けない魁皇は?
むかつくけど悔しいことにやたらと強い朝青龍はいつ負けるのか?
そして、琴光喜、若の里、千代大海らの活躍は?
個人的には貴ノ浪には最後のひとはなを咲かせてほしいなとか、
栃乃洋、安美錦あたりにそろそろがんばってほしいぞ、とか。
などなど、いろいろ気になるところはあって、
考え出すときりがなくて、
あぁ、やっぱり大相撲見てぇよ、とかって思うけど、
そこはやっぱり、大事な時期です。
今場所はセンター終わるまで我慢しようと決めました。
やっとの思いで決断した「大相撲断ち」です。
が。
そんなぼくが、
自分の部屋で、時間はかって、
数学の過去問といてたとき。
大相撲のことは、
考えると見たくなっちゃうんで、
極力忘れるようにして、
頑張ってたのに。
センター一週間前だからって、
真剣に気合入れて
頑張ってたのに。
そんなぼくの状況を察しようともせず、
「いのすけー、大相撲やってるわよー。」
「栃東出てるぞー。」
「見ないのかー。」
と、やたらのんきに問いかけてくる家族たち。
いちいちむかついてもしょうがないんで、
無視してたら、
わざわざ部屋の戸を開けて
「ちょっとー、見なくていいの?」
とかって聞いてくるし。
息子が受験生だろうが、
センター直前だろうが、
必死こいて勉強中だろうが、
お構いなし。
そんな素敵なぼくの家族たちです。
でもでも、さすがに、センター1週間前切ってるこの期に及んで、
大相撲観戦しようとか、思ってはいません。
そりゃ、貴乃花は休場、武蔵丸は今ひとつ調子が出ていない、と言われる今場所、
大関に昇進した栃東はどこまで行くのか?
影が薄くなりがちだけど、調子が出てきたときの豪快さは誰にも負けない魁皇は?
むかつくけど悔しいことにやたらと強い朝青龍はいつ負けるのか?
そして、琴光喜、若の里、千代大海らの活躍は?
個人的には貴ノ浪には最後のひとはなを咲かせてほしいなとか、
栃乃洋、安美錦あたりにそろそろがんばってほしいぞ、とか。
などなど、いろいろ気になるところはあって、
考え出すときりがなくて、
あぁ、やっぱり大相撲見てぇよ、とかって思うけど、
そこはやっぱり、大事な時期です。
今場所はセンター終わるまで我慢しようと決めました。
やっとの思いで決断した「大相撲断ち」です。
が。
そんなぼくが、
自分の部屋で、時間はかって、
数学の過去問といてたとき。
大相撲のことは、
考えると見たくなっちゃうんで、
極力忘れるようにして、
頑張ってたのに。
センター一週間前だからって、
真剣に気合入れて
頑張ってたのに。
そんなぼくの状況を察しようともせず、
「いのすけー、大相撲やってるわよー。」
「栃東出てるぞー。」
「見ないのかー。」
と、やたらのんきに問いかけてくる家族たち。
いちいちむかついてもしょうがないんで、
無視してたら、
わざわざ部屋の戸を開けて
「ちょっとー、見なくていいの?」
とかって聞いてくるし。
息子が受験生だろうが、
センター直前だろうが、
必死こいて勉強中だろうが、
お構いなし。
そんな素敵なぼくの家族たちです。