明日は・・・。
2001年11月16日うちの学校は今年、百周年を迎える。
その記念式典は、明日行なわれるらしいんだけど、
今日は記念植樹を学校でやっていた。
っていっても、参加者はPTAとか同窓会とかの代表者と、
あと、おそらく教職員と、そして生徒代表だけ。
生徒代表は、出来れば3年生からだしたいということだったらしく、
当然3年生で元生徒会長である僕にも『やってくれない?』と言う声がかかった。
けど、毎度の事ながら、
めんどくさがりの上に、身勝手な僕は、
『かったるい』と断ったばかりか、
同じクラスの元文化祭実行委員長Oと元中央委員会議長Fを
『こいつらならやってくれますよ』と、先生の前に差し出した。
全ては、自分を候補から外すために。
あぁ、僕ったら、なんて悪い子。
FもOも真面目ないい奴なんで、先生に頼まれていやだといえず、
引き受けたらしい。
その後、『おまえのせいだ』と言って蹴られたけど・・・。
で、今日が、その記念植樹の日。
せっかく4時間目の授業を公欠にしてもらって玄関前の会場に行ったのに、
同窓会の方々がなかなか来ず、
寒い中待たされた挙句、
やっと始まったと思った直後に4時間目の授業が終わり、
校舎から出てきた生徒たちに、
スコップを持って木を植える様子を見られて恥ずかしい思いをしたFとOは、
植樹が終わった後、こう聞かれたらしい。
『どっちが生徒会長なの?』
そして、Fの報告によると、困ったOは
『いや、生徒会長は英語の授業サボりたくなくて、参加していません。』
と答えたとか。
・・・。
やばっ。
どうしよう。
そんなこと言われて、悲しげな表情を浮かべる同窓会のおじいさん方の顔を想像するのが怖い。
『授業サボりたくないから』参加しなかった僕は、
本日英語の教科書忘れてたりするわけで・・・。
どうしよう、思いっきりかっこ悪いです。
やっぱり、身勝手すぎたでしょうか。
ちょっぴり、罪悪感。
っていうか、何もそんなありのままに説明しなくてもいいのに、O。
もうちょっと、こう、巧みに取り繕うことはできなかったんでしょうか。
まったく、使えない奴らです。
・・・なんて。
そしてそして、
生徒会長欠席の理由を聞いた同窓会の方は、
『うーん、そうかぁ。英語の授業は大切だからねぇ・・・。でも、百年に一度のことなんだから・・・。』
『・・・。』が痛すぎです。
確かに、今回のことはちょっと僕も、めんどくさいからって、悪いことしたかなという気はします。
反省・・・。
でもでも、僕は思うのです。
『百周年なんだから・・・。』
『百年に一度なんだから・・・。』
百周年記念式典が近づいてきたここ最近、
生徒の式典大量サボタージュも予想される中、
決まりきったように繰り返されるのが、こういった言葉です。
『百年に一度』なんだから参加するべきだ。
もしくは、参加する価値がある。
そのような論法が強調されています。
でも、よく考えたら、こんな言葉には何の意味もないと思うのです。
例えば、
『百年に一度のお祭り』とか
『百年に一度の逸材』とか
『百年に一度の豊作』とかって、よく言います。
上の3つとも、なんとなく、『おぉ、すごいぞ』という感じがするのは事実です。
けど、『おぉ、すごいぞ』がかかるのは、『百年に一度の』ではなく、
あくまでも、『お祭り』『逸材』『豊作』なのです。
『百年に一度の』という言葉には、後に続くおめでたいもの、楽しそうなもの、素晴らしいものの持つ意味を、
さらに強める働きしかありません。
つまり、『百年に一度』と言う事実自体には、
何一つ喜ばしいことは何も無いのです。
したがって、後に続く言葉が、『式典』とか『植樹』とかだったりして、
それらがおめでたかったり、楽しそうだったり、素晴らしかったりするということが、決して無いという場合、
『百年に一度』と言う要素には、それらを逆転させて、『参加すべきもの』にするような機能は、
無いというわけです。
だから、
『百周年だから・・・。』とか
『百年に一度だから・・・』とかいわれても、
『だから何?』としか、思えません。
そんなこと言われても・・・、って感じです。
それなのに、それがあたりまえのように、
先生にも、同窓会の人にも、PTAの人にも言われて、
ちょっとやだ。
それでなくても、生徒たちを不快にさせる要素で満ち満ちている今回の百周年記念式典。
(式典前日である今日、それについて触れるのは避けますが。)
漠然とした腹立たしさを感じます。
そんな今日この頃。
その記念式典は、明日行なわれるらしいんだけど、
今日は記念植樹を学校でやっていた。
っていっても、参加者はPTAとか同窓会とかの代表者と、
あと、おそらく教職員と、そして生徒代表だけ。
生徒代表は、出来れば3年生からだしたいということだったらしく、
当然3年生で元生徒会長である僕にも『やってくれない?』と言う声がかかった。
けど、毎度の事ながら、
めんどくさがりの上に、身勝手な僕は、
『かったるい』と断ったばかりか、
同じクラスの元文化祭実行委員長Oと元中央委員会議長Fを
『こいつらならやってくれますよ』と、先生の前に差し出した。
全ては、自分を候補から外すために。
あぁ、僕ったら、なんて悪い子。
FもOも真面目ないい奴なんで、先生に頼まれていやだといえず、
引き受けたらしい。
その後、『おまえのせいだ』と言って蹴られたけど・・・。
で、今日が、その記念植樹の日。
せっかく4時間目の授業を公欠にしてもらって玄関前の会場に行ったのに、
同窓会の方々がなかなか来ず、
寒い中待たされた挙句、
やっと始まったと思った直後に4時間目の授業が終わり、
校舎から出てきた生徒たちに、
スコップを持って木を植える様子を見られて恥ずかしい思いをしたFとOは、
植樹が終わった後、こう聞かれたらしい。
『どっちが生徒会長なの?』
そして、Fの報告によると、困ったOは
『いや、生徒会長は英語の授業サボりたくなくて、参加していません。』
と答えたとか。
・・・。
やばっ。
どうしよう。
そんなこと言われて、悲しげな表情を浮かべる同窓会のおじいさん方の顔を想像するのが怖い。
『授業サボりたくないから』参加しなかった僕は、
本日英語の教科書忘れてたりするわけで・・・。
どうしよう、思いっきりかっこ悪いです。
やっぱり、身勝手すぎたでしょうか。
ちょっぴり、罪悪感。
っていうか、何もそんなありのままに説明しなくてもいいのに、O。
もうちょっと、こう、巧みに取り繕うことはできなかったんでしょうか。
まったく、使えない奴らです。
・・・なんて。
そしてそして、
生徒会長欠席の理由を聞いた同窓会の方は、
『うーん、そうかぁ。英語の授業は大切だからねぇ・・・。でも、百年に一度のことなんだから・・・。』
『・・・。』が痛すぎです。
確かに、今回のことはちょっと僕も、めんどくさいからって、悪いことしたかなという気はします。
反省・・・。
でもでも、僕は思うのです。
『百周年なんだから・・・。』
『百年に一度なんだから・・・。』
百周年記念式典が近づいてきたここ最近、
生徒の式典大量サボタージュも予想される中、
決まりきったように繰り返されるのが、こういった言葉です。
『百年に一度』なんだから参加するべきだ。
もしくは、参加する価値がある。
そのような論法が強調されています。
でも、よく考えたら、こんな言葉には何の意味もないと思うのです。
例えば、
『百年に一度のお祭り』とか
『百年に一度の逸材』とか
『百年に一度の豊作』とかって、よく言います。
上の3つとも、なんとなく、『おぉ、すごいぞ』という感じがするのは事実です。
けど、『おぉ、すごいぞ』がかかるのは、『百年に一度の』ではなく、
あくまでも、『お祭り』『逸材』『豊作』なのです。
『百年に一度の』という言葉には、後に続くおめでたいもの、楽しそうなもの、素晴らしいものの持つ意味を、
さらに強める働きしかありません。
つまり、『百年に一度』と言う事実自体には、
何一つ喜ばしいことは何も無いのです。
したがって、後に続く言葉が、『式典』とか『植樹』とかだったりして、
それらがおめでたかったり、楽しそうだったり、素晴らしかったりするということが、決して無いという場合、
『百年に一度』と言う要素には、それらを逆転させて、『参加すべきもの』にするような機能は、
無いというわけです。
だから、
『百周年だから・・・。』とか
『百年に一度だから・・・』とかいわれても、
『だから何?』としか、思えません。
そんなこと言われても・・・、って感じです。
それなのに、それがあたりまえのように、
先生にも、同窓会の人にも、PTAの人にも言われて、
ちょっとやだ。
それでなくても、生徒たちを不快にさせる要素で満ち満ちている今回の百周年記念式典。
(式典前日である今日、それについて触れるのは避けますが。)
漠然とした腹立たしさを感じます。
そんな今日この頃。
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