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大関と横綱
2001年12月29日横綱と大関
その一番大きな違いは、
勝てなくなった時の責任のとり方ではないだろうか。
大関には勝てなくなったときの明確な規定がある。
「二場所連続して負け越したら大関陥落」
「但し、陥落した次の場所で10勝以上すれば大関復帰が可能」
大関でも人間だから好不調の波はある。
たまたま体調を崩したり、怪我をしたりして、
二場所くらい満足に相撲が取れないときもあるだろう。
しかし、そんな時も言い訳は許されない。
実力が不足しているものとみなされ、
即、大関の座を追われる。
一見すると、かなりシビアな規定だ。
しかし、横綱にはそれがない。
何度負けようが、何場所休もうが、
それで横綱の位を奪われることはない。
規定がないから、横綱の地位からの陥落と言うことはありえない。
したがって、一度横綱になれば、その力士は、
引退するまで横綱の地位にすわることが出来る。
「大関に比べて、なんと言う甘さか。」
「一度頂点を極めれば、それでいいのか。」
そんな気がしないでもない。
しかし、
「じゃぁ、横綱がその地位を降りるときとはどんなときか?」
ということを考えたとき、
この、「規定がない」ということの厳しさに思い至る。
そう、「引退するまで横綱の地位に座ることが出来る」とは
裏を変えせば、
横綱がその地位を降りるとき、
相撲界自体からも引退しなくてはならない、と言うことだ。
横綱といえども、体力の限界はある。
かつてのように「無敵の強さ」を見せつけることが出来なくなる時期が、
いつか必ず訪れる。
そのような時、
たとえ、三役、あるいは幕内にとどまれば相撲が取れるレベルに
まだあったとしても、
相撲界内外からの批判の声と無言の圧力により、
その力士は土俵を去らなければならないのだ。
大関以下の力士については
休場を続ければ、
その番付は休んだ場所数に比例して、
確実に下がっていく。
しかし、横綱は、調子が悪いと何場所でも休む、と言うことがよくある。
これは、横綱には「勝てない状態で土俵に上がる」ことが許されていないから、
に他ならない。
横綱とは、「常に勝つことが義務付けられた存在」なのだ。
だから、横綱は、休場してもその地位が保障される代わりに、
出場した場合には完璧な強さが求められる。
常に勝たなくてはならない強さ。
下から這い上がろうとするものたちを冷静に蹴落とさなくてはならない強さ。
当然のようにそういった完全な相撲で勝たなくてはならないのだ。
横綱になるとは、
文字通り「相撲界を中心として支える」役割と責任を担うということなのである。
厳しい世界だ。
でもそれだからこそ、横綱を頂点とする相撲界全体の秩序が
保たれていくのだろう。
権威とはそのようにして、
犠牲と代償を強いられ、
責任を担わせることによって初めて生じるもの。
全ての世界に通じる普遍的な原則が、
ここにも適用されているというだけのことだ。
なんにしてもそう。
「特別なもの」とは、そういうものなのかもしれない。
自分にとって
特別なもの
特別な活動
特別な仕事
特別な人
特別な関係
それを中心として自分を動かし、
それを支えることが自分の行動の主題となり、
その存在全てに責任を持つ。
それらは、それゆえに「特別」なのだ。
そう思う。
その一番大きな違いは、
勝てなくなった時の責任のとり方ではないだろうか。
大関には勝てなくなったときの明確な規定がある。
「二場所連続して負け越したら大関陥落」
「但し、陥落した次の場所で10勝以上すれば大関復帰が可能」
大関でも人間だから好不調の波はある。
たまたま体調を崩したり、怪我をしたりして、
二場所くらい満足に相撲が取れないときもあるだろう。
しかし、そんな時も言い訳は許されない。
実力が不足しているものとみなされ、
即、大関の座を追われる。
一見すると、かなりシビアな規定だ。
しかし、横綱にはそれがない。
何度負けようが、何場所休もうが、
それで横綱の位を奪われることはない。
規定がないから、横綱の地位からの陥落と言うことはありえない。
したがって、一度横綱になれば、その力士は、
引退するまで横綱の地位にすわることが出来る。
「大関に比べて、なんと言う甘さか。」
「一度頂点を極めれば、それでいいのか。」
そんな気がしないでもない。
しかし、
「じゃぁ、横綱がその地位を降りるときとはどんなときか?」
ということを考えたとき、
この、「規定がない」ということの厳しさに思い至る。
そう、「引退するまで横綱の地位に座ることが出来る」とは
裏を変えせば、
横綱がその地位を降りるとき、
相撲界自体からも引退しなくてはならない、と言うことだ。
横綱といえども、体力の限界はある。
かつてのように「無敵の強さ」を見せつけることが出来なくなる時期が、
いつか必ず訪れる。
そのような時、
たとえ、三役、あるいは幕内にとどまれば相撲が取れるレベルに
まだあったとしても、
相撲界内外からの批判の声と無言の圧力により、
その力士は土俵を去らなければならないのだ。
大関以下の力士については
休場を続ければ、
その番付は休んだ場所数に比例して、
確実に下がっていく。
しかし、横綱は、調子が悪いと何場所でも休む、と言うことがよくある。
これは、横綱には「勝てない状態で土俵に上がる」ことが許されていないから、
に他ならない。
横綱とは、「常に勝つことが義務付けられた存在」なのだ。
だから、横綱は、休場してもその地位が保障される代わりに、
出場した場合には完璧な強さが求められる。
常に勝たなくてはならない強さ。
下から這い上がろうとするものたちを冷静に蹴落とさなくてはならない強さ。
当然のようにそういった完全な相撲で勝たなくてはならないのだ。
横綱になるとは、
文字通り「相撲界を中心として支える」役割と責任を担うということなのである。
厳しい世界だ。
でもそれだからこそ、横綱を頂点とする相撲界全体の秩序が
保たれていくのだろう。
権威とはそのようにして、
犠牲と代償を強いられ、
責任を担わせることによって初めて生じるもの。
全ての世界に通じる普遍的な原則が、
ここにも適用されているというだけのことだ。
なんにしてもそう。
「特別なもの」とは、そういうものなのかもしれない。
自分にとって
特別なもの
特別な活動
特別な仕事
特別な人
特別な関係
それを中心として自分を動かし、
それを支えることが自分の行動の主題となり、
その存在全てに責任を持つ。
それらは、それゆえに「特別」なのだ。
そう思う。
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