考えた。
2001年8月15日当り前だが、世の中には右な人と左な人がいる。
最近、それを強く実感する、そんな世の中になってきました。
昔から良く思うことだが、この『右と左』と言う表現。とても便利だ。誰だって生きていれば実感するであろう、思想上のこの違い。でも2つの違いを他の言葉で性格に表現しようとすると、とんでもなく長くなってしまうんじゃないかな。っていうか、普通に『右って何?』『左の人ってどういう人?』って聞いたときに、よどみなく説明できる人なんてそう多くないのではないだろうか。フランス革命時の裁判で、革新派と保守派の座った位置から、こう言うようになったらしいが、便利な表現だ。
僕はこれまで育ってきた過程において、比較的左の思想によって構成されるものに囲まれてきた、と思ってる。学校の先生にしろ、書物にしろ、家族にしろ、見るテレビ番組にしろ、友達にしろ…。新聞も朝日新聞だし。そんなわけで、自分はどっちかって言えば、左の人間なんじゃないかっていう気がする。少なくとも、右的な思想には一種の反感を覚える。かといって、過激な思想の持ち主というわけではないし、自分の思想のためにはある程度、大胆かつ積極的な行動も辞さない、とまでは考えていない。そんな人間だ。
だから、世の中を当り前のように、左よりな視点で捉えるし、ニュースの受け取り方にしても、政治に対する個人的スタンスにしても、やっぱり左の人間のそれなのであろうと思う。左の思想に必然性を感じるし、(非常に偏狭ではあるが)世の中の大多数もそうなんだろうな、って思って生きてきた。
けど、最近、よく思う。『それって逆じゃん。』って。
世の中を見回してみたときに、どうしたって右の人が目立つ。それも、ジジイばっかだと思ってたら、けっこうどの世代も分け隔てなく。僕の理解力の乏しさのせいで、その人の個人的な性格を思想の違いと取り違えてたりするのかもしれなくて、あんまり自信はないのだが、でも他人が当り前のように政治問題等についてコメントする内容に、本質的な反感を覚えるという機会は、僕が相手の言うことを理解する力を見に付けていくにしたがって、間違いなく増えている。だから、やっぱり世の中、右よりな人が多いんじゃないかって、思うのである。
だから、どうだと言うわけではないが、最近そういう人たちの妙な自信が気にかかる。自分、民族、国家、歴史に対する妙に自己本位な自信。そこには異なる視点、異なる背景、異なる角度、異なる心情を思いやる思想は存在しない。『誇り』という美しい表現で片付けられがちだが、ちょっとでも下手をすると、ナショナリズムの香りすら漂ってきそうなきけんな自信。そんな自信が、いま、日本のいたるところで社会的地位を得ている。
もちろん、そういった誇りを唱える人が世に溢れるのは、現在の自分たちに自信が持てない人が増えていることの裏返しだ、と言うことは理解している。そして、そのように、普通にしてたら自国に自信なんて持てないような状況にいま日本があることも事実だろう。
世の中には紙一重なことが数多くある。今言った『愛国心・郷土愛』と『ナショナリズム』もそうだし、『誇り』と『蔑視』、『統一』と『同化』、『他からの独立志向』と『意固地な孤立主義』などなど、数え上げればきりがない。全てがみな、ちょっと間違うと逆の方向に転じてしまう可能性を秘めつつ、危ういバランスを保っているからこそ、成り立ちうる概念だ。しかし、そこには当然のことながら、そんなバランスなど簡単に崩壊してしまうという危険性も内在しているのだ。そのことにもっと注意して行動・発言・思慮すべきなのではないだろうか。
自信を持つこと、自立すること、もちろん大事なことだと思う。一つの独立した国家としての存在をアピールしていかなければ、このまま国民が自信を失っていくだけだ。いつまでも周りの様子を窺って、他の言いなりになっているわけには行かない。それはあたりまえのことだ。
けれども、一つのことばかりにとらわれていすぎてもいけないと思う。世の中には、他にも数多くの判断基準が存在する。最近、驚くほど、その辺に鈍感な人の存在を意識することが多くなってきたきがする。
もっと、国民の知的レベルを上げなきゃいけない。欧米の人に馬鹿にされないように。最近、よくそう思う。自信をもつ、ということだけでなく、そこにはそれだけの裏づけが必要なのだ。それには、もっと注意深くならなくてはならない。偏狭になりすぎていたり、危険性に気が付かなくなったりするようでは、元も子もないと思う。問題の表面だけを見て一喜一憂しないで、その裏には何が潜んでいるのか、本質的かつ現実的な見方を国民全員が養っていかなくてはならないのではないだろうか。
なんて、日本中が様々な感慨を抱き、日本の行く末を思い、そして割れるこの時期、自分なりに、考えてみたりした。
日本はこの先、どうなるのだろう…。
最近、それを強く実感する、そんな世の中になってきました。
昔から良く思うことだが、この『右と左』と言う表現。とても便利だ。誰だって生きていれば実感するであろう、思想上のこの違い。でも2つの違いを他の言葉で性格に表現しようとすると、とんでもなく長くなってしまうんじゃないかな。っていうか、普通に『右って何?』『左の人ってどういう人?』って聞いたときに、よどみなく説明できる人なんてそう多くないのではないだろうか。フランス革命時の裁判で、革新派と保守派の座った位置から、こう言うようになったらしいが、便利な表現だ。
僕はこれまで育ってきた過程において、比較的左の思想によって構成されるものに囲まれてきた、と思ってる。学校の先生にしろ、書物にしろ、家族にしろ、見るテレビ番組にしろ、友達にしろ…。新聞も朝日新聞だし。そんなわけで、自分はどっちかって言えば、左の人間なんじゃないかっていう気がする。少なくとも、右的な思想には一種の反感を覚える。かといって、過激な思想の持ち主というわけではないし、自分の思想のためにはある程度、大胆かつ積極的な行動も辞さない、とまでは考えていない。そんな人間だ。
だから、世の中を当り前のように、左よりな視点で捉えるし、ニュースの受け取り方にしても、政治に対する個人的スタンスにしても、やっぱり左の人間のそれなのであろうと思う。左の思想に必然性を感じるし、(非常に偏狭ではあるが)世の中の大多数もそうなんだろうな、って思って生きてきた。
けど、最近、よく思う。『それって逆じゃん。』って。
世の中を見回してみたときに、どうしたって右の人が目立つ。それも、ジジイばっかだと思ってたら、けっこうどの世代も分け隔てなく。僕の理解力の乏しさのせいで、その人の個人的な性格を思想の違いと取り違えてたりするのかもしれなくて、あんまり自信はないのだが、でも他人が当り前のように政治問題等についてコメントする内容に、本質的な反感を覚えるという機会は、僕が相手の言うことを理解する力を見に付けていくにしたがって、間違いなく増えている。だから、やっぱり世の中、右よりな人が多いんじゃないかって、思うのである。
だから、どうだと言うわけではないが、最近そういう人たちの妙な自信が気にかかる。自分、民族、国家、歴史に対する妙に自己本位な自信。そこには異なる視点、異なる背景、異なる角度、異なる心情を思いやる思想は存在しない。『誇り』という美しい表現で片付けられがちだが、ちょっとでも下手をすると、ナショナリズムの香りすら漂ってきそうなきけんな自信。そんな自信が、いま、日本のいたるところで社会的地位を得ている。
もちろん、そういった誇りを唱える人が世に溢れるのは、現在の自分たちに自信が持てない人が増えていることの裏返しだ、と言うことは理解している。そして、そのように、普通にしてたら自国に自信なんて持てないような状況にいま日本があることも事実だろう。
世の中には紙一重なことが数多くある。今言った『愛国心・郷土愛』と『ナショナリズム』もそうだし、『誇り』と『蔑視』、『統一』と『同化』、『他からの独立志向』と『意固地な孤立主義』などなど、数え上げればきりがない。全てがみな、ちょっと間違うと逆の方向に転じてしまう可能性を秘めつつ、危ういバランスを保っているからこそ、成り立ちうる概念だ。しかし、そこには当然のことながら、そんなバランスなど簡単に崩壊してしまうという危険性も内在しているのだ。そのことにもっと注意して行動・発言・思慮すべきなのではないだろうか。
自信を持つこと、自立すること、もちろん大事なことだと思う。一つの独立した国家としての存在をアピールしていかなければ、このまま国民が自信を失っていくだけだ。いつまでも周りの様子を窺って、他の言いなりになっているわけには行かない。それはあたりまえのことだ。
けれども、一つのことばかりにとらわれていすぎてもいけないと思う。世の中には、他にも数多くの判断基準が存在する。最近、驚くほど、その辺に鈍感な人の存在を意識することが多くなってきたきがする。
もっと、国民の知的レベルを上げなきゃいけない。欧米の人に馬鹿にされないように。最近、よくそう思う。自信をもつ、ということだけでなく、そこにはそれだけの裏づけが必要なのだ。それには、もっと注意深くならなくてはならない。偏狭になりすぎていたり、危険性に気が付かなくなったりするようでは、元も子もないと思う。問題の表面だけを見て一喜一憂しないで、その裏には何が潜んでいるのか、本質的かつ現実的な見方を国民全員が養っていかなくてはならないのではないだろうか。
なんて、日本中が様々な感慨を抱き、日本の行く末を思い、そして割れるこの時期、自分なりに、考えてみたりした。
日本はこの先、どうなるのだろう…。
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